2015/07/29

イコンの残闕

文章の補遺的なものが好きなのだが、

なぜかというとたぶん、
昔読んで、いまでも読み返す宮澤賢治の全集のせいだろう。
補遺、異稿がたくさん載っていた。

それを検証してどうこうしようということではなく、
補遺、異稿のままほっておかれた書き物がなんとなく好きなのだろうか。

さらにさかのぼると、
谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」という詩集に掲載されている「タラマイカ偽書残闕」がオレにとっての補遺のルーツなのだろう。
(あれは、ボルヘスの「トレーン・ウクバール・オルビス・テルティウス」(カナ表記はいろいろある)とおなじことを別次元の記載方法で行ったものだと思う)

それと同じ地平において、
C・ギンズブルクの「チーズとうじ虫」における粉屋の話もまた、たまたま現代に残ってしまった思考の断片である。

皆も読んだらいい。

デカルト的なるものとは正反対の、
残闕からなにかを知りたいという欲求があるのだろう。
(思い当たる節があるな、、、)

書いていたら、また宮澤賢治の全集読みたくなってきた。

もちろん、冒頭から読むのではなく、
適当に開いた部分を読み散らかす方向で。