2014/04/13

仲村さんの白目表現について

【これまでのあらすじ】
漫画「惡の華」の登場人物である「仲村さん」が好き過ぎて、いろいろ考えている。この仲村さんという複雑な人物をどのように理解したらいいのか、、、我々同時代に生きる者に共通の課題である。

【本題】
第54話で、仲村さんが、「よかったね」と春日くんを労った後に、「じゃあ・・・仲村さんは?」と問われて、空を見上げて見せる白目については、読者に相当の、それも得体の知れない衝撃を与えたものと思う。

というか、あれに衝撃を受けないのなら漫画や小説など読むのをやめたらいいとまで思う。

この白目はルドンの惡の華を模したものであることは明らかだが、なぜこの場面でその白目なのかについてわからなくて、オレ自身相当困惑した。一月ほど考え、ようやくうすぼんやりした答えが見え始めたので、覚えとして書いておこう。

【1 表現について】
まず、あの異様な白目の表現は、実際の仲村さんの姿を描写した、ということではなく、春日くんの心象に映った仲村さんの姿であるということだろう。押見修造の絵の中で、あの目はほかの場面と連続性をもって表現されていないことから、おそらくは現実の姿を表わしたものではなく、心象のなかのものであろうと思う。

同様の表現は4巻で、仲村さんの部屋に入った春日くんに出て行けと激昂する場面での、鬼のような目がある。これもどう見ても春日くんの心象のなかのものだろう。
仲村さんの目が過剰に表現されたのはこの2回である。

【2 なぜ悪の華の目なのか】
春日くんには、仲村さんの心はいまだに悪の華を抱えているように見えた、ということだが、(春日くんは華を握りつぶしてしまった)
悪の華の目が出現したのは「じゃあ・・・仲村さんは?」と問うた後のことだ。
仲村さんはいまだ悪の華を抱え、孤独のまま生きているということであり、この会話の前段「みんなと同じ道を行くことに」はしていないということなのだろう。

つまり、その瞬間、たった一人の理解者を失い、仲村さんはこの世界でもっとも孤独な存在となったということだ。
あの目をみたオレ=読者が抱いた言いようのない不安感って、こういうことなのかもしれない。

悪の華を仲村さんの目に見たからこその、春日くんのその直後の行動があったいうことだろうか。

ネット上では、春日くんが常磐さんとつきあっているということを知った後の仲村さんの絶望を表しているという意見がある。たしかにそれもあるかもしれない。

あれだけ「まんじゅうども」の価値観を嫌悪していた仲村さんが、自分が春日くんを好きになっていたとはっきり知ったのはいつだったろうか。
それについての描写はないので、推測するほかない。

私は、あの櫓事件の前夜、春日くんの上に涙を落とした廃墟での夜だったと思う。
それゆえ、「クソムシも向こう側もない」=「自分もクソムシだ」となったのだ。
そして、春日くんを本当に大切だと思ったから、櫓から突き落とし、自分一人で、可憐に咲かせた悪の華の責任をとることにしたのだ。
そして、その姿勢は再会のときでも変わらなかった。それゆえあの目なわけだ。
・・・という解釈だが、どうだろうか。

【3 孤独と理解者】
春日くんを好きだったことに気づいてから3年半の間、仲村さんはなにを考えながら過ごしていたのだろうか。

見知らぬ町で、激しい孤独のなかで、かつてお互い理解し合うことができた生涯でたった一人の人を、仲村さんは、ほんとうはずっと待ち望んでいたのではなかったか、、、

いつか、春日くんが訪ねてくる日のことを想像したことがあっただろうか、、、

日が昇り、日が沈むという外川の海岸の景色を眺めることで、空虚さをわずかでも埋めることができただろうか、、、

それを想像すると、心の奥底を鈍い刃物でえぐられるようだ。

大切なのは、仲村さんが春日くんを好きになっていたということを、常磐さんも佐伯さん(*)も気づいた、ということだろう。

*大宮で春日くんに再会した佐伯さんは執拗に「なぜ櫓から突き放したか」を問い、それがわからない春日くんをひどく責めている。(まるで自分はその理由がわかっているといわんばかりに、、、)

逆に言えば、気づいていなかったのは春日くん(と春日くん目線の読者)だったということなのかもしれない。
そう、、、仲村さんを「救」えるのは春日くんしかいない。佐伯さんはそれを言いたかったのかもしれない。
そして、実際にあの海岸で春日くんは仲村さんを救ったのだった。

【ご都合主義批判への反駁】
海岸での常磐さんの言動を「ご都合主義ではないか」とする感想もあるが、反駁したい。

あの場にいればだれでも仲村さんと春日くんの強い繋がりはわかるものであろう。とくに感受性(*)の強い常磐さんならば過剰に反応しても当然というレベルだと思う。むしろ、春日くんの告白を聞いた瞬間にあの言動を決心していた可能性もある。

(もっとも、手合わせしたり手の匂いをかいだりして意志を疎通させる二人を見て衝撃を受けない人はいない、、、それを見てしまうと「あーこれあかんやつや(この二人の中には入っていくことなどできない)」ということになるのだろう)

これをご都合主義というならあらゆる物語は成立しまい。
(e.g.ホセ・ブエンディーアの子の名前がホセなのは読者を混乱させるためのご都合主義だ・・・・)

*感受性は、微分的認知といいかえてもいいか。採集狩猟時代以前に起源する、人類(を含めた動物)の持つ力である(中井久夫氏の著作を見よ)。押見修造氏の作品には、この感受性が激しい登場人物がいくつか見られる。

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