2014/04/27

季節外れのクリスマス

http://kensosha.blogspot.jp/2012/05/blog-post_16.html

以前もトムとジェリーのことについて書いたが、
なんかの機会に読んだうろ覚え情報を書いておこう。
あるいは、オレが夢の中で思ったことかもしれない。
ちょっとその辺判然としないので申し訳ないが、、、

あとで出典が見つかったら補足しようか。

トムとジェリーの第3作「The night before Christmas」は1941年12月6日に劇場公開された。

http://www.dailymotion.com/video/xcq9z9_tom-and-jerry-the-night-before-chri_shortfilms

「The night before Christmas」は、クリスマスの前夜に、喧嘩ばかりしていた猫とネズミが最終的には仲良くなり、クリスマスの幸いを分かち合うという話である。

この映画を見た米国人の多くは、
「もしかしたら日本とは戦争をしなくてもうまくやって行けるのではないか」と、希望を抱くことができた、、、(かもしれない)
だが、その希望は淡く消えることとなったのだ。

そう、、、
米国時間1941年12月6日とは、太平洋戦争が起きる前日である。

2014/04/25

自作の楽しみ



 以前、自分で作ったものを並べてみた。
このうち、キーホルダー兼カードケースは作り直した。

同じ革を使うといいことある。

(似たエントリを書いた記憶がうっすらありますが
 まあいいだろう)

2014/04/19

VW Golf (7型)のバッテリーチェック方法

先日、みんカラで読んだので、覚えとして書いておこう。

キーを抜いた状態で、ドアを閉めて
トリップメーターのリセットスイッチを長押しする(4秒くらい)

すると、センタークラスターのパネルの表示が
「時間」→「SOCバッテリー」と変化するので、
「SOCバッテリー」のときにリセットスイッチを離すと
バッテリー充電量がパーセンテージで表示される。

これによれば、いまのオレのクルマのバッテリー充電量は
80%。

一冬越した充電量としてはまずまずじゃないか。
いまのところ前のクルマで悩まされた暗電流による放電は
みられないようだ。

なお、「時間」のときにリセットスイッチを離すと
時計の時刻を修正できる。

2014/04/18

1974

近所に天王グリーンランドという広い遊び場が付属した道の駅があるのだが、

http://www.kurara-spa.co.jp/

子を連れていった折、そこの屋内の遊び場に本棚があるのに気づいた。
かなり前の子供向けの本(たとえば江戸川乱歩の少年探偵団シリーズやあかね書房の科学グラフ本など)があってほのぼのしたのだが、その中に Time Lifeブックスというシリーズがあったので読ませてもらった。

これは大人向けのヤツね。当時の裕福な家庭ではこんな本を買ってたのかもしれませんね、、、というハードカバー。

そのうちの一冊に「地球」というのがあって、1974年に刊行されたものだったが、そこに興味深い記述があったので覚えとして書いておこう。オレが小学二年生のときの本だ。

(うろ覚え)
1974年時点での予想では、大気中の炭酸ガス(ママ)がその時点でのペースで増えつづければ、西暦2000年時点で地球の平均気温は2度上がると書いてあった。そして、西暦3000年では7度上昇し、人類は融けた氷河由来の洪水との深刻な戦いに直面する、、、

これって、当時としてはかなり正確な記述じゃなかったか。
地球温暖化は実は古くて新しい問題なのであろう。

でも、西暦3000年の予想は楽観過ぎるかもしれませんね。

2014/04/15

「惡の華」第56話 覚え

予告によれば次号で最終回であり、4年間半見続けた作品が終わる。
今回も覚えを書いておこう。

こっからはネタバレなので読みたくない方はやめといてください。

【悪の華が散ること】
悪の華が散るということは、思春期=ここでは青春 の終わりであろうが、春日くんの表情は、懐かしいものを見る感じ。つまり、春日くんは思春期=青春が終わったものとして懐かしさの対象としている。
散っていく悪の華の花びらは、タンポポのそれを連想させる。
タンポポのかわいらしい形は幼少期を何となく想起させるものであり、その花びらの集合体の形は仲村さんの髪型も連想させる。

【思春期=青春=幼さ=仲村さんとの関係】 の終わりということか。

【夢の描写】
寝苦しさの中で春日くんが見た夢は、登場人物達が紆余曲折ありそうでありながら落ち着くところに落ち着いた、という内容であるが、これは春日くんの無意識下の想像力が考えたものである。

・常磐さんはミステリ作家として成功して自分と結婚し、女の子を授る
・佐伯さんは幸せな(?)結婚(小泉くんではない人と!)をして、桐生で木下さんと再会したりする
・仲村さんは外川でお母さんの店で【ちゃんと】働いて、お父さんとも和解する

、、、というあたりさわりのないドラマ。

これは、春日くんが物語の進行の中で得た情報を元に作り出した、【彼にとって】最高にハッピーなエンド=【都合のいい終わり方】であろう。

(*佐伯さんについては、不幸な境遇も連想させる描写(なぜか子供たちを連れずに一人トローリーを押して桐生を訪れる)があったりして、佐伯さんに対する春日くんの複雑な感情を反映しているのかもしれない)

正直、これで終わられてしまうとあまりにも差し障りなくて、「背徳の純愛ストーリー」としてどうかと一瞬思ったが、、、

だが、そうはならないようだ。なぜなら、、、

【もう一人の仲村さん】
夢の中で、外川の仲村さんとは別に、都会の横断歩道に現れた仲村さんについてはどうだろう? 
垢抜けた髪型、黒いドレスと、外川の地味な仲村さん像(*)からはるかに飛躍していることから、春日くんの想像力の範疇を超えたもののように思える。

*外川の地味な仲村さん像:e.g. Tシャツ、エプロン、スカート、白ハイソックス、コンバース的シューズ、普通の髪型、アホ毛

仲村さんに対しては、春日くんの中に、二つの矛盾した願望があるのかもしれない。

ひとつは外川で家族と仲良く暮らしていて欲しいという願望であり、もうひとつは都会(=自分の住んでいる街)に、中学生の時と同じような黒いドレスと髪型をまとって現れて欲しいという願望だ。

黒い服の仲村さんの頭の形は、まるで悪の華の花弁の集合体のようであり、目は外川で見せた毒気のない目ではなく、中学生のときと同じような【蛇のような】目である。

春日くんにとっての「ミューズ」であり「ファム・ファタル」とはこっちなのだろう。

でも、、、たぶん大丈夫。なぜなら、あらゆる人生において「ミューズ」や「ファム・ファタル」とは結婚できないことになっているので。

そもそも、もう1話残っている。果たしてどうなるか。

予告のあおり文句は「鬱屈し、それでいて激しく輝いた青春の残像に春日は何を思うのか」である。

(このブログの「惡の華」関連の記事は右上のラベルから飛べます)

2014/04/13

仲村さんの白目表現について

【これまでのあらすじ】
漫画「惡の華」の登場人物である「仲村さん」が好き過ぎて、いろいろ考えている。この仲村さんという複雑な人物をどのように理解したらいいのか、、、我々同時代に生きる者に共通の課題である。

【本題】
第54話で、仲村さんが、「よかったね」と春日くんを労った後に、「じゃあ・・・仲村さんは?」と問われて、空を見上げて見せる白目については、読者に相当の、それも得体の知れない衝撃を与えたものと思う。

というか、あれに衝撃を受けないのなら漫画や小説など読むのをやめたらいいとまで思う。

この白目はルドンの惡の華を模したものであることは明らかだが、なぜこの場面でその白目なのかについてわからなくて、オレ自身相当困惑した。一月ほど考え、ようやくうすぼんやりした答えが見え始めたので、覚えとして書いておこう。

【1 表現について】
まず、あの異様な白目の表現は、実際の仲村さんの姿を描写した、ということではなく、春日くんの心象に映った仲村さんの姿であるということだろう。押見修造の絵の中で、あの目はほかの場面と連続性をもって表現されていないことから、おそらくは現実の姿を表わしたものではなく、心象のなかのものであろうと思う。

同様の表現は4巻で、仲村さんの部屋に入った春日くんに出て行けと激昂する場面での、鬼のような目がある。これもどう見ても春日くんの心象のなかのものだろう。
仲村さんの目が過剰に表現されたのはこの2回である。

【2 なぜ悪の華の目なのか】
春日くんには、仲村さんの心はいまだに悪の華を抱えているように見えた、ということだが、(春日くんは華を握りつぶしてしまった)
悪の華の目が出現したのは「じゃあ・・・仲村さんは?」と問うた後のことだ。
仲村さんはいまだ悪の華を抱え、孤独のまま生きているということであり、この会話の前段「みんなと同じ道を行くことに」はしていないということなのだろう。

つまり、その瞬間、たった一人の理解者を失い、仲村さんはこの世界でもっとも孤独な存在となったということだ。
あの目をみたオレ=読者が抱いた言いようのない不安感って、こういうことなのかもしれない。

悪の華を仲村さんの目に見たからこその、春日くんのその直後の行動があったいうことだろうか。

ネット上では、春日くんが常磐さんとつきあっているということを知った後の仲村さんの絶望を表しているという意見がある。たしかにそれもあるかもしれない。

あれだけ「まんじゅうども」の価値観を嫌悪していた仲村さんが、自分が春日くんを好きになっていたとはっきり知ったのはいつだったろうか。
それについての描写はないので、推測するほかない。

私は、あの櫓事件の前夜、春日くんの上に涙を落とした廃墟での夜だったと思う。
それゆえ、「クソムシも向こう側もない」=「自分もクソムシだ」となったのだ。
そして、春日くんを本当に大切だと思ったから、櫓から突き落とし、自分一人で、可憐に咲かせた悪の華の責任をとることにしたのだ。
そして、その姿勢は再会のときでも変わらなかった。それゆえあの目なわけだ。
・・・という解釈だが、どうだろうか。

【3 孤独と理解者】
春日くんを好きだったことに気づいてから3年半の間、仲村さんはなにを考えながら過ごしていたのだろうか。

見知らぬ町で、激しい孤独のなかで、かつてお互い理解し合うことができた生涯でたった一人の人を、仲村さんは、ほんとうはずっと待ち望んでいたのではなかったか、、、

いつか、春日くんが訪ねてくる日のことを想像したことがあっただろうか、、、

日が昇り、日が沈むという外川の海岸の景色を眺めることで、空虚さをわずかでも埋めることができただろうか、、、

それを想像すると、心の奥底を鈍い刃物でえぐられるようだ。

大切なのは、仲村さんが春日くんを好きになっていたということを、常磐さんも佐伯さん(*)も気づいた、ということだろう。

*大宮で春日くんに再会した佐伯さんは執拗に「なぜ櫓から突き放したか」を問い、それがわからない春日くんをひどく責めている。(まるで自分はその理由がわかっているといわんばかりに、、、)

逆に言えば、気づいていなかったのは春日くん(と春日くん目線の読者)だったということなのかもしれない。
そう、、、仲村さんを「救」えるのは春日くんしかいない。佐伯さんはそれを言いたかったのかもしれない。
そして、実際にあの海岸で春日くんは仲村さんを救ったのだった。

【ご都合主義批判への反駁】
海岸での常磐さんの言動を「ご都合主義ではないか」とする感想もあるが、反駁したい。

あの場にいればだれでも仲村さんと春日くんの強い繋がりはわかるものであろう。とくに感受性(*)の強い常磐さんならば過剰に反応しても当然というレベルだと思う。むしろ、春日くんの告白を聞いた瞬間にあの言動を決心していた可能性もある。

(もっとも、手合わせしたり手の匂いをかいだりして意志を疎通させる二人を見て衝撃を受けない人はいない、、、それを見てしまうと「あーこれあかんやつや(この二人の中には入っていくことなどできない)」ということになるのだろう)

これをご都合主義というならあらゆる物語は成立しまい。
(e.g.ホセ・ブエンディーアの子の名前がホセなのは読者を混乱させるためのご都合主義だ・・・・)

*感受性は、微分的認知といいかえてもいいか。採集狩猟時代以前に起源する、人類(を含めた動物)の持つ力である(中井久夫氏の著作を見よ)。押見修造氏の作品には、この感受性が激しい登場人物がいくつか見られる。

(このブログの「惡の華」関連の記事は右上のラベルから飛べます)

2014/04/12

仲村さんを表象するキーワード

【これまでのあらすじ】
漫画「惡の華」の登場人物である「仲村さん」が好き過ぎて、いろいろ考えている。この仲村さんという複雑な人物をどのように理解したらいいのか、、、我々同時代に生きる者に共通の課題である。

【本題】

今回は仲村さんを表すキーワードを抽出してみた。

普通じゃない
反抗
反社会的
軋轢
疎外
孤独
友情
暴力
魂の叫び
「向こう側」への渇望
コミュニケーション・ブレイクダウン
思春期

あっと思う方もいるかと思いますが、、、

これっていわゆるRockとかPunkとかのキーワードとほぼ一緒だ。かつて嫌悪され弾圧された悪の音楽。音楽の「惡の華」である。
(現代のちゃらけたRockとは異なります)

だとすれば、仲村さんの懊悩・渇望は、この世界で普遍的なものであり、RockとかPunkが受容されたように、実は、誰もが理解・共感可能なものと思う。(彼らののやり方に賛同する・しないは別にして)

音楽という形をとるか、仲村さんという人物造形をとるかの違いがあるだけではないか。(大きく出た)

一般的には仲村さん的なパーソナリティは社会に受容されないと受け取られ、実際に物語中では受け入れられなかったが、必ずしもそうではない。

他に注目すべき点としては、、、
仲村さんには、RockとかPunkに横溢する「性」の要素が入っていないということですかね。
(入ってるといえば入っているが、仲村さんの場合は肉体的なものではなく、本人が無意識的に拒絶(※)するのでちょっと違うような気がする)

※無意識的な拒絶については
①3巻 雨宿り中、春日くんの、濡れた服を見る視線に対する「何?」「なんか飽きたな もう帰ろうか」と突き放すところ、
②6巻 廃墟で手をグーの形にしたこと
を見よ。


RockとかPunkとかと同様に、仲村さん的なるものが、たとえば夏祭りの櫓(やぐら)事件のように破滅へと向かうこともあるだろうし、あるいはまったく新しい地平を開くこともあるのだろう。

2014/04/10

Kindle PaperWhiteの善用

子育て中ということもあって、なかなか本を読むことが難しい。
本当に自由になるのは1日おきの22:30~25:00だけだ。
(子が寝た後、洗濯物を干した後)

その時間だけでは到底ネットを見たり本を読んだりということは難しい。
なので、合間を見て操作できるデバイスが必要だった。

そこで、約3年前にiPad2を導入した。

これは成功だったね。家事のあいまにネットをチェックできる。
最近、Kindle本を買うようになって、iPadで読んでたんだけど
バッテリー消耗に悩まされた。

そこで、読書用端末としてKindle PaperWhite 2nd generationを購入してみた。
ディスプレイは激しく小さいんだが、意外に読める。
漫画にはもうすこし解像度が欲しいところだが、
ここぞという時にはiPadで読むので、まあいい。

Kindle PaperWhiteは普段はエプロンのポケットに入れといて、
必要なときに台所の裏とかで取り出して読んでいる。
バッテリーが2週間はもつので助かるね。




ちなみにこれが男もすなるエプロンというものだ。
(Lee オーバーオールエプロン)
ポケットがたくさんついていて、Kindleだけでなく
拾った紙ゴミや赤子の尻を拭くお尻ナップなんかも入れることが出来る。

これを着ているとユースホステルのペアレント(おやっさん)みたいに
なってしまうのが気に入っている。あるいはなぎら健壱か。

なお、肩ベルトを外して腰部分から折り返してみると、あーら不思議
腰履きエプロンになってカフェの店員みたいになる。
いらっしゃいませー(喉を締め付けながら)

閑話休題、、、

この機械は本を読むための単能機械ですね。意外と読みやすい。
論文などを読むのに実は適しているのではないか。もうちょっと画面が大きいと図なんかも見やすいと思うけど、ポケットに入らなくなるだろう。

今後の商品展開への希望をいえば、漫画が高解像度で読めるディスプレイが欲しいね。
つか、漫画用の大型ディスプレイのPaperWhiteがあればいいね。
(B5サイズのディスプレイが2つ付いた見開き専用機)

2014/04/08

PENTAX Q 故障の顛末

デジカメではよくあるところの「電源が入らなくなる」故障に遭遇した。いままで買ったデジカメではこのような故障はなく、初めての体験だが、、、よくあるらしいね。

たまに電源が入る事もある、ということから推測して、スイッチとかじゃなくて、基板本体のトラブルと推測。

まあ、毎日持ち歩いてたし、温度差もあったし、カバンの中で揺らしてたのでしょうがないかと思う。いま直しとけばもう3年は持つだろう。

思えばQは動画撮影機としても重宝している。最近は静止画では外付けストロボを入手したK-7の出番が増えたので、スナップ用途に使用していたが、小さいので持ち歩きに便利。出先などでよく使っている。

電源が入らない場合の簡易見積もりでは12600円。けっこうな出費だよな。基板交換となるとこのくらいはするのだろう。

もう同額出すと、Q7が買えてしまうが、、、Qの質感が気に入ってるのであえて修理することにした。

1/1.7インチCMOSのQマウント機は、将来、EVFがついてAuto110みたいになったら買うことにしよう。
それまではこのQを活用したい。

今回は忙しいこともあってピックアップリペアサービスを利用した。
ウェブ上で登録すると、数日後にクロネコさんが取りに来てくれた。
(このサービスのために千円くらい必要なんだがやむを得ない)
むき出しでドライバーさんに渡しても大丈夫なしくみになっている。

Qは2週間ぶりに戻ってきた。
なんか褒美にやりたいが、修理費けっこうかかったので
お預けだ。

明細によると、基板すべてを交換したみたいだ。
これでピックアップ込みで13650円也。

2014/04/05

リプロダクション版ヘッドバッジの取り付け

【これまでのあらすじ】
eBay経由でスイスからオールド時代のクラインのヘッドバッジ・リプロダクション版を4080円で購入した主宰。いよいよQuantum Race(2000)に取り付けようとしていたが、、、

リプロダクション版ヘッドバッジは、真鍮製で、厚さ約0.4mmくらい。けっこう丈夫だ。ちょっとやそっとでは曲がらない。

あらかじめ多少曲げてあるのだが、Quantum Race(2000)の1インチヘッドチューブに取り付けるには、もうすこし曲率がきつくないといけない。

工場ではたぶんローラーのようなもので曲げるのだろう。
この場合どうしたらいいのか。





 色々調べたが、結局、手で曲げることになった。
少なくともショックレスハンマーなどで叩くよりはダメージが少ないだろう。
カッティングマットに押しつけるなど、時間を掛けてちょっとずつ曲げることで、なんとか希望の曲率にすることができた。






 Fuselage(クラインにおけるフレーム&フォークのこと)側は可逆変更にとどめたいので、接着剤ではなく、裏側にニトムズの超強力両面テープを貼って、バイクのFuselageに取り付ける。



  
まあ、多少の雨風くらいなら大丈夫だろう。
これが完成した状態。どうだろうか?


なかなかよくはないか。

今は新しいためぺかぺかした状態だが、数年経てば味が出てくると思う。外すときはヒートガンで80度くらいにあっためればはずれるだろう。

このリプロダクション版は、リストアとかで再塗装する場合にも有効なはずだ。買っとけ!

買っとけポイント ★★★★(★5点が満点)

2014/04/01

リプロダクションによるヘッドバッジ

(これはウソ記事ではありません)

先日、eBayを見てたら、オールドクライン時代に使われていた真鍮製ヘッドバッジが出品されてた。
国籍はスイス。リプロダクションによるもの、と記されている。
画像を見た感じ、モトクロスインターナショナル版で購入したFervorに付いていたものに似ていた。

このヘッドバッジ、95年モデル以前のクラインに、場合によっては付いていたことがあるものだ。
確証がないのでこのような薄ぼんやりした書きぶりになっている。

mtbr forumsではディーラーオプションではないか、などと言われている。

ヨーロッパや日本に輸入されていたクラインに付いていたことが多かった、、、という言い方でいいでしょうか。
オレが以前日本国内のオークションで購入した中古のAttitude1992には付いていなかった。

ともかく、こういう製品は面白い。
試しに購入してみよう。

配送料込みで4080円だった。
1週間くらいで届いたのがこれ。


材質は真鍮。美しく光っておる。

では、オリジナルはどうだったか。
モトクロスインターナショナル輸入版のFervorのヘッドバッジがこちら。

 

もう20年も経っているのでこのように
いい味出ている。


比べてみると、大きさはほぼ同じだ。
ただ、梨地部分がFervorのほうが荒く、リプロダクションのほうが細かい。
そのくらいの違いしかない。なかなかいい製品じゃないかと思う。

取り付けは強力な両面テープなどで行うのだろう。

さて、こいつの活用方法だが、、、

オリジナリティとは何かを考え始めるとキリがないので、
可逆変更ということで、近々、Quantum Race(2000)に取り付けてみようと思う。