2017/01/11

この世界の片隅に 「しあはせの手紙」


あのあと、ずっと「この世界の片隅に」のことを考えてきた。

原作、映画ともにすごい作品だなあと思うのだが、一つだけ映画で「ここをこうしていたら、、、」というところがある。
それは、「しあはせの手紙」の扱いだ。

原作では右手によるモノローグ的な手紙である、こうの先生の書き文字で表現される「しあはせの手紙」、これは映画ではコトリンゴさんの歌「みぎてのうた」で大半が表現される。

でも、私としてはこれは、のん(能年玲奈)による右手のモノローグで行くべきではなかったか、と思う。画面に集中していると、コトリンゴさんの声がよく聞き取れないということもあるが、それ以上に、もっと重要なことがある。

原作の「しあはせの手紙」では、「海苔の暗闇」「いまこれを讀んだあなたは死にます」「どこにでも宿る愛」「背中も掻いてやれないが」などがそれぞれ、コマ中の絵と完全にシンクロしている。これこそマンガ的表現であるが、映画でもモノローグと画面をシンクロできたのではないか。

(そして、「どこにでも宿る愛」とシンクロさせて、広島駅前でのすずさんの台詞「よう広島で生きとってくれんさったね」も描いてもよくなかったか。

「しあはせの手紙」システムには、「他の人にあと○通出す」というプロセスがあるはずで、それはすずさん夫婦からあの広島の孤児だった子に送られた、そしてこの物語が終わったあとでも作中でだれかに送られるであろう「しあはせの手紙」だけではなく、この作品を読んだ人から、だれか知らない人たちへも、たくさんの「しあはせの手紙」が送られたはずなのだ。
このように「しあはせの手紙」は無限に世の中に満ちていく。


「しあはせの手紙」は、この作品でこうの先生が隠した最後の仕掛けである。
そのため、「しあはせの手紙」という言葉はどこかで使って欲しかった。