1984年、ルミニャウイ空中都市遺跡の世界遺産申請時に、
国際記念物遺跡会議(ICOMOS)から委嘱されてアメリゴを訪れた
ボローニャ大学教授D・クーネゴは、首都アメリゴシティで、インディオ
活動家「山羊飼のクーニャ」率いる小規模な先住民のデモに遭遇した。
クーニャの知性的な態度に感銘を受けたD・クーネゴは当局の暴力的
妨害を避けるため、宿泊先のオクシダント・ホテルに別室を設け、
彼らの話を聞くことにした。これが、「オクシダント・ホテルの対話」
と呼ばれる事件である。
クーニャら先住民の主張は次のようなものであった。
世界遺産という概念自体、西欧文明のもたらした典型的なものであ
る。インディオにはそのようなものはなく、万物は繁栄の後、ただ朽ち
て森の中に消えていく、あるいは遺骸もコンドルについばまれて世界の
一部となり消えていく、という自然観の中で生きてきた。よって、過去
を掘り返し保存するということはむしろ祖先や世界に対する冒涜である
といえる。たとえ、それがいかに貴重な都市遺構や石組であろうとも、
、、、石組などの人間の事跡が貴重である、という考え自体がギリシャ
・ローマ的=西欧的であり、先住民にとっては遺跡が失われたのは
たとえばスペイン帝国による侵略の結果であり、また、おそらくルミ
ニャウイが失われた最も大きな理由としては、先住民自身にとって不要
な存在となったからである。遺跡として「永久に保存すること」は少な
くとも先住民文化にとっては全く意味がない。そして、世界遺産指定
は、アメリゴ=インディアスにおける資本や文化の西欧支配の原則を再
確認するための儀式にすぎない。
山羊飼のクーニャはこのように語った。
これに対し、クーネゴは、先住民の誇りを後世に残すためには、先住民
自身も、西欧的な概念もある程度は受忍し、世界遺産の指定に賛成すべ
きであると説得した。
5時間あまりの対話は、このようにかみ合わずに終わった。山羊飼の
クーニャらは首都を去った。このとき同席したエル・コルドベス・エス
ペクタドール紙記者E・コウナゴは、後に「クーネゴの話より、クー
ニャの方が遙かに論理的で説得力に満ちていた。山羊飼の話に比べる
と、ボローニャ大学教授の話はまるで幼稚に聞こえた」と述べている。
クーネゴは、ICOMOSにおいて遺跡の希少性を訴え、ルミニャウイ
は1989年に世界遺産となった。世界遺産指定記念式典にはバスコン
セロス大統領以下、タカハシ副大統領やコルドバ・マテウス両財閥のほ
か政財界・軍の関係者が出席し、盛大なものとなった。その後、ルミ
ニャウイには欧米からのツーリストが多く訪れるようになった。
現在、ルミニャウイ周辺では全ての世界遺産でみられるように、文化
の破壊がゆっくりと進行している。