転載します。おヒマな方はどうぞご覧ください。
連ツイ:わたモテにおける物語構造について
以前、Bloggerで、わたモテにおけるパラダイムシフトと画期の時期について書いたことがあった。 http://kensosha.blogspot.jp/2015/11/blog-post_6.html
それを要約すると、次の通り。 パラダイム1 主人公・智子が周りの状況に翻弄され混乱する パラダイム2 主人公・智子の意図する・あるいは意図しない行動により、周りの人が翻弄される これらパラダイムがシフトした画期の時期は、修学旅行であるとした。(要約終わり)
それに関連して、今回ちょっと考えたことだが、、、 パラダイム1のときは、智子自身が外の世界に適応しようとして苦心惨憺している。これに対し、パラダイム2では、智子以外の人物が、外部から智子の世界に触れて混乱する。
まるで異文明同士の衝突だが、この物語の場合、受け身の側のほうが外側にショックを与える、という構造になっている。パラダイム1では受け身側=世界、アプローチ側=智子であり、パラダイム2では受け身側=智子、アプローチ側=世界 である。
異文明の衝突において、ショックを受けるのはどちらの側であるか、という問題があるが、たぶんわたモテ世界においては双方が同じ程度の独自性を持っており、それぞれショックを与え、そして受けるということだろう。
パラダイム1では、智子は欧州の武器に蹂躙されたインディアスに、パラダイム2では、内、井口は織豊政権下の日本に衝撃を受けたイエズス会士になぞらえられる、とするのは言いすぎか。
類似した作品が、主人公がショックを受け続ける構造から抜け出せないのに対し、わたモテはその構造を一瞬で抜け出し、別の次元へ進入したと思う。
現在連載中のチャプターでは、智子が周りの世界に激しい衝撃を与え続けている。(修学旅行の最後の夜-タバコ事件-体育祭-最新話Ch.91を見よ)
ところで、修学旅行では前半はまだパラダイム1である。(入浴後の「そうだ!あれでもやるか」事件では、まだ智子が他人の在り様にショックを受けている。ところが、修学旅行後半からはあきらかに他人に激しい衝撃を与えるようになっている。
画期の時期をさらに細かく見ると、有料ビデオカード事件がその画期本体であったような気がする。あの場面で、吉田がビデオカードを智子の手から取った、まさにそのときが画期であったかもしれない。
そのとき、吉田や田村にとって智子は「空気」ではなくなっていた。 そういう意味において、このパラダイムシフトにおいて、吉田という存在(言い換えれば吉田的な、受け身側とアプローチ側とを精神的・身体的な両面でクロスオーバーする「ピュア」=特異な存在)が必要だったのかとも思う。
修学旅行のあの時点において、世界が智子を発見した、といえる。この時点から、智子はもう空気やぼっちではなく、世界の一員になったのではなかったか。
Ch.90での「この間までぼっちだった(=今はもうぼっちではない)」というセリフも真実味を帯びて読めると思う。 結論としては、いまわたモテはすごく面白くなってるからみんな読んだほうがいいよ、というものです。
以上です