2014/05/13

「惡の華」第57話(最終話) 覚え

以下ネタバレなので読みたくない人は読まないでください。

そして、これは無数にありうる解釈の一つであることに留意してほしい。

【なぜいま過去の内面描写なのか】

今回、この作品で初めて、中学時代の仲村さんの内面が描写された。
それは想像していたよりはるかに仲村さんは絶望的な内面を持っていた、ということで非常にインパクトではあるが、ちょっと別のところに注目してみよう。

今までは春日くん以外の登場人物の描写は、春日くん目線(あるいは相応のレベル)によるものであり、作者目線によるものはない。
とすれば、最終話だけ作者が仲村さんの内面描写をしたのかということだが、私はそうは考えない。
私は、今回の仲村さんの内面描写は、作者目線によるものではなく、従前通り、春日くん目線によるものではないかと考える。

どういうことか。

この最終話は、第55話で常磐さんから「何でも(書いてみたらいい)」と言われたこと、それを受けて、第56話で、夢の力により仲村さんのあらましを理解した春日くんが白紙のノートに書き始めた「作品」である、という解釈である。
(それが小説なのか漫画なのかはどちらでもいい)

この解釈なら、突然描写の主体が切り替わったなどという不整合は生じない。一貫して、この物語は春日くん目線による、春日くんの成長譚だ、ということでいける。

もしそうなら、なぜ春日くんは仲村さんの内面を描写し始めたのか。

春日くんは答えを見つけたのだ。そう、、、夏祭りの夜、仲村さんが自分を櫓から突き落とした理由について。
外川の海岸で、軽くはぐらかされたあの答えである。

それがはっきりとわかったから、今、仲村さんの内面を描くことができた、ということだろう。

(そして、その答えを得たと言うことは、3年間彷徨して得るに足る、素晴らしいことであると言っておきたい。)

【仲村さんとこの世界】
自分を取り囲むこの世のすべてが汚辱にまみれたもので、無垢な自分も汚辱=【この世間】に犯されていくという恐れとあきらめ、そしてそのために自分をおいた極端な孤独の中で、仲村さんはかろうじて生きているように描かれている。
だが、それももう限界に近く、心が壊れる寸前のように見える。

しかし、あの日、春日くんの、体操着を盗んだ行為を目撃して以来、仲村さんは孤独ではなくなった。この世界で、たった一人、自分を理解してくれるかもしれない人と出会ったのだ。

春日くんと一緒ならば、たぶん世界の向こう側にも行ける。
そうした予感を持ったうれしさが、自室でノートをつけるときの何とも言えない表情に現れているのだろう。

今、進行形で、最終話の仲村さんの物語を書いている春日くんには、ついにわかったのだ。

仲村さんが、自分のことを好きだったということを。

何度もこの覚えで触れてきたが、やはり、それこそが、仲村さんが春日くんを櫓から突き落とした理由だったのだ。
そして、そのことを仲村さん自身も知っていたのだ。(外川の海岸で見せたはぐらかしの表情により察することができる。)

ここで、私はなにかすごくほっとした。仲村さんと春日くんがようやく深く理解し合えたということなのだろうから。

【共鳴】
今回描写された仲村さんの内面と、1巻から7巻まで描かれた仲村さんの言動を照らし合わせてみたらどうだろうか。

・数々の罵詈雑言や暴言、
・サイクリングロードでの誘惑、
・春日くんをいたぶる姿、
・クソムシの海事件、
・山登りでの虚無を見るような目、
・川原の秘密基地での微笑ましいふれ合い、
・暴力による春日くんの救出と廃墟での涙、
・そして世界をキレイと言った夏祭りの夕方、、、

深い孤独を抱える仲村さんが、春日くんに共鳴して、人間として成長している姿を見ることができるのではないか。(それがひどくゆがんだ形だとしても)

「共鳴」とは、直接ふれあうことなしに、ある物体の有り様が、他の物体の有り様に伝播することである。だから、この二人の「純愛」にはぴったりの言葉であろう・・・そう、まさに「純愛」だ。

そうした姿を反芻しながら、衝撃的なあの第54話で描かれた仲村さんの孤独と、ずっと好きだった人から、3年の時を経て「消えないでいてくれてうれしい」と言われた後の、突き抜けたような笑顔を思い起こすと、、、
そして、この二人がもう二度と会うことはないということを知るなら、、、

君たちは胸が張り裂るように感じないか。

私は、春日くんはこの続きを書いていくだろう、、、そう想像する。
それは、きっと仲村さんの魂があの海岸で救われるまでを描くに違いない。

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